2006年5月 6日 (土)

心霊写真

Yahoo!ニュースより(配信は5日付けサンケイスポーツ)
「タイのホラー映画「心霊写真」めぐり、トラブル続出」

20日に日本公開の
タイの映画「心霊写真」関係者の間で
パソコンの電源が突然に切れるなどの不可思議な現象
が起きているとのこと。
 
うーん,評価が難しいですね~。
怪談に関しては
この手の話が以前から
しばしばあるものですし。
 
一例を挙げると,
「サスペリア」(77年)の本編内で
ストーリーと無関係に”謎の叫ぶ男の顔”が写っている,
と当時話題になったそうです。
でも
後の監督インタビューで
制作サイドが仕込んだものだったことが判明。
 
古くは江戸時代に
怪談狂言の上演前に
主役が病気に倒れるなど関係者に怪事が相次いだので
怪談の主人公のために供養を行った,
ところが,主役の病気等の怪事は
実は作者と歌舞伎俳優たちが仕組んだヤラセだった,
という例も。
 
私的には,
ホラー映画を盛り上げるために
事前に怪談を流すっていうのは
OKなんですけど(映画自体がフィクションだし),
うまく怖がらせてほしいな,というのが正直なところ。
パソコンの電源が切れるなんて,
数年前までは珍しくなかったじゃん(笑)。
 
映画「心霊写真」の公式サイトはこちら
この映画のタイアップ企画なのか,
浅草の花屋敷では「心霊写真展」 と「心霊写真撮影会」を開催するとか。
 
映画とは関係ないですが,
心霊写真関係サイトとしては,
こちらのHPの中の次のページがおすすめ。
 
http://www5a.biglobe.ne.jp/~fnao/shinrei_pic.htm
 
http://www5a.biglobe.ne.jp/~fnao/shinrei_pic2.htm
 
懐疑的立場から非常に丁寧に検証されています。
謎解きされていても,
屋形船の中で撮影されたという写真が怖いです。

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2006年4月28日 (金)

酒と河童

酒と河童という取り合わせだと
♪カッパッパ~の「黄○」のCMを思い出す方も
多いかと思いますが,
今回,御紹介するのは
佐賀県伊万里市にある”かっぱの酒蔵”「松浦一酒造」さん。
ホームページはこちら。
http://www2.saganet.ne.jp/kappa/

トップページには
「福岡国税局新酒鑑評会優等賞受賞」の文字が
誇らしげに掲げられていますね。
美味しいお酒を造っている酒蔵さんのようです。

そして,
このお店の凄いところは何と言っても,これ↓
http://www2.saganet.ne.jp/kappa/miira.htm

「河伯のミイラ」があるんですね。

想像の産物であるはずの河童に
なぜミイラが存在するのか?不思議です。

よく,河童はカワウソ(←私のことじゃないよ)の
見間違いだとか言われるようですが,
リンク先の写真を見る限り,
カワウソにしては小さすぎますし,形も似ていません。

50年程前に屋根の梁の上にあったのを
大工さんが見つけたそうで,
発見のされ方も何となくミステリアス。

「河伯のミイラ」のおかげで,
この酒蔵さんは「じゃらん」で紹介されるくらいの
観光名所になっており,
なかなかのご利益のようです。

もちろん,
この酒蔵さんでは何種類ものお酒を扱っています。
http://www2.saganet.ne.jp/kappa/tyokueitenn.htm

上戸の方は伊万里に行かれた折りに
立ち寄って一杯飲んでみるのもいいかもしれませんね。

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2006年4月 4日 (火)

芭蕉とかさね(番外編)

「芭蕉とかさね」シリーズ,
本来であれば
今回は松尾芭蕉が羽生村事件を知っていた上で
あえて奥の細道に「かさね」を登場させたのかを
検証するつもりだったんですが,
過去の記事を読み返してみて,
どうも肝心かなめの羽生村事件そのものに
あんまり触れていないことに
我ながら引っかかりました。

 
そこで,
今回は「番外編」と称して,
芭蕉からは離れて羽生村事件そのものの
おさらいをしてみたいと思います。
 
今回は口調も変えて,ですます調でいきます。

 
羽生村事件というのは,
1672年(寛文12年)に
下総の国・羽生村の百姓・与右衛門の娘・菊が
突然,病に取り付かれたことに端を発します。

 
もっと具体的にいうと,
菊は同年1月4日から病で寝込んでいたのですが,
同月23日になってから
父親・与右衛門に向かって
自分はお前に殺された累である,と叫ぶようになりました。
「累」は与右衛門の最初の妻であり,
菊にとっては義母ともいえる関係にある女性です。

 

村人たちは,
いったん近くの寺に逃げた与右衛門を連れ戻して
自分が「累」であると言い張る菊と対決させました。
当初は累殺害を否認していた与右衛門でしたが,
「累」(実際は菊)から目撃者がいることを指摘されると
最終的に累殺害を認めるにいたります。

与右衛門は家付き娘である累の田畑を狙って
入り婿にはいったけれども,
次第に累のことが疎ましくなり,
1647年(正保4年)8月11日に
累と一緒に鬼怒川を渡る際に累を川に突き落として
殺害したのでした。

 

この後,「累」に取り憑かれた菊の物狂いは続きますが,
最終的には
当時,弘経寺にいた浄土宗の僧・祐天の尽力により
3月10日になって「累」は菊から離れていきます。

 
ところが,
4月10日になって,再び菊が物狂いに取り憑かれます。
再び累の霊が取り憑いたのかと
祐天が菊の元を訪れて問答したところ,
この時に菊に取り憑いたのは「助」という少年の霊でした。
 
この「助」は累の異父兄であり,
累の生まれる前に
累の母親が累の父親のところに嫁いだ際,
同行していた連れ子だったのですが,
身体の不自由な子供であったため,
義理の父(累の実父)から疎まれ,
離縁されるのを恐れた実母(累の実母でもある)に
鬼怒川に投げ込まれて
ほんの五,六歳で命を落としていたのでした。
羽生村事件の61年前のことです。
 
「助」が実母の手で鬼怒川で殺害された後,
異父妹である「累」がやはり鬼怒川で夫に殺害される。
互いに顔を知らぬ異父兄妹がそれぞれ被害者となる。
因果は「かさね」られたのです。
 

「累」が成仏したのを目の当たりにした「助」は
自分も救済されたくて菊に取り憑いたのでした。
 
「助」も祐天の力により成仏します。

この祐天は
後に将軍・綱吉の生母・桂昌院の帰依を受けており,
現在も目黒の祐天寺にその名前を残しています。
過去の記事で取り上げた「死霊解脱物語聞書」は
結局,祐天の活躍を宣伝することがひとつの目的であったわけです。
 
 

さて,このままだと
羽生村事件は
死霊が若い娘に取り憑くという怪談であるわけですが,
別の観点から捉えることもできるかと思います。
 

物狂いになった菊は,
羽生村事件の前年の8月に
母親(与右衛門の4番目の後妻)が亡くなっており,
その年の12月には同村の金五郎と結婚しています。
度重なる後妻の死に不安になった与右衛門が,
後継者を確保するために急いで婿をとったと推測できます。
 
羽生村事件当時,菊は数え年14歳ということですから,
その前年では数えで13歳,
満年齢でいえば11歳か12歳であり,
母の死,結婚と相次いで大きな出来事が重なった菊には
相当な精神的ストレスが加わったと思われます。
 
そんな時,
以前に村人がしていた噂話のことが
ふと菊の心に浮かんだとしたら?

 
狭い農村のことです。
(与右衛門の最初の女房・累が鬼怒川で死んだのはどうもおかしい。)
(与右衛門が累を沈めるのを○○村の某が見たという話も聞くぞ。)
(そういえば,累の母親の連れ子も妙な死に方をしたらしい。)
そんな村人のヒソヒソ話が
まだ幼い菊の耳に入ったことがあったとしても不思議でありません。
 
羽生村事件は,
死霊の憑依などではなく,
重大なストレスにさらされた娘が
意識的にか無意識にか,
過去に聞いた父親の犯罪が真実かどうかを
世間に問うたものだとも
考えられるわけです。

 

根拠が不十分なまま長々と推測を書き連ねて
しまいました。
うまく説明できていないところもあるようです。
(累の件はともかく,
父親が無関係な助の件を
菊が持ち出すのは理由がないようにみえる点など。)

脇道はこのくらいにして,
次回からはまた芭蕉とかさねの話に戻ります。

 

(おまけ1)
祐天の属する浄土宗を含めた念仏系の宗派は,
阿弥陀如来が一切衆生を救済するという点を信仰の柱としているので,
救われない霊が憑依するというような現象には否定的なようである。
羽生村事件における祐天の「活躍」は,
浄土宗の僧侶としては異例のものだといえようか。
 
(おまけ2)
与右衛門が累を疎んじた理由について,
「死霊解脱物語聞書」は
累が家付き娘であることをいいことにして
婿の与右衛門に対して大きな態度をとっていたことも原因だとするが,
地元では,
累は心の優しい女性であり,
与右衛門はそこに付け込んで婿入りし,
家や田畑の乗っ取りを図ったのであり,
乗っ取りに成功した後に無用になった累を疎んじたのだという話が
伝わっているそうである。 

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2006年3月25日 (土)

妖精写真

まずは下の写真をみていただきたい。
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/en/7/71/Cottingley_Fairies_1.jpg

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/en/d/d1/Cottingley_Fairies_2.jpg

少女と共に妖精が写っている。

この写真は,英国・ブラッドフォード近くの村コティングリーで
1916年から1920年にかけて
いとこ同士である2人の少女が撮影した写真である。
少女たちは以前から妖精に出会ったと周囲に話していたが,
信じてもらえなかったため,
証明のためにカメラを借りて撮影したのだという。

この写真が世に出回ると
その真偽をめぐって激しい議論が起こった。
否定派が,
写真に写った妖精が余りに現代的であることなどを理由に
(伝承上の妖精fairyは,むしろ妖怪的な存在である。)
偽造写真であると主張したのに対し,
肯定派は
二重写しの痕跡がないことや
撮影した十代の少女たちに偽造が無理なことを理由に
本物の妖精写真であると主張した。
特に強行にこの写真が本物であることを主張したのは
アーサー・コナン・ドイル,
つまり「名探偵シャーロック・ホームズ」シリーズの作者である。
ドイルはこれを肯定するために本まで書いている。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/487282301X/qid=1143289493/sr=8-5/ref=sr_8_xs_ap_i5_xgl14/503-6881231-8225535

その後,
この写真は肯定派によって
ずっと本物として紹介されつづけた。
私も小学校高学年の頃(70年代後半)に
子供向けの本の中で本物の妖精の写真として紹介されているのを
読んだ記憶がある。

しかし,
80年代に入ってから,
撮影した2人の女性は
写真がフェイクだったことを告白した。
彼女たちは,
本に掲載されていた妖精の絵を紙に写し取って切り取り,
長いピンに貼り付けて地面に刺して留めた上で
自分たちと一緒に撮影していたのだった。
二重写しの痕跡が見つからないのも当然だったわけである。
自分たちの妖精話を信じない大人たちを
ビックリさせようとした小さないたずらが,
ドイルを初めとする著名人が大騒ぎしたために
今日まで伝わるような事件に発展してしまったのだった。

 

以上が世に言う「コティングリー妖精事件」のあらましですが,
最後に一言言わしてください。

・・・写真に写ってる「妖精」,どう見たって平面的じゃん!
絵に決まってるだろーが!
なんでコナン・ドイルがこの写真に引っかかったのか,
私的にはそっちの方が謎です。

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2006年3月18日 (土)

芭蕉とかさね(その3)

松尾芭蕉が那須・黒羽で
「かさね」という小娘に出会ったのは
「奥の細道」によると
元禄2年(1689年)4月3日のことらしい。

これを「その2」で示した時系列表の中に
入れてみると
次のとおりとなる(羽生村事件より前の出来事は省略)。

1672年 菊が累の霊に乗り移られる騒動発生(羽生村事件)。

1689年 ★松尾芭蕉,那須・黒羽で少女「かさね」と出会う。

1690年 羽生村事件を題材にした「死霊解脱物語聞書」刊行

1694年 ★松尾芭蕉 死去

1702年 ★「奥の細道」刊行

一見して明らかなとおり,
松尾芭蕉が「かさね」と出会ったのは,
「死霊解脱物語聞書」刊行の前年である。

幼いとは言え,
芭蕉の乗る馬の後を慕って
年上の子供(*)と一緒に追いかけていること,
自分の名前を名乗っていることからすれば,
「かさね」は少なくとも
四,五歳にはなっているとみるべきであろう。
*与謝野蕪村の挿絵では年上の男の子が一緒に描かれているが,
原文では「ちいさき者ふたり」とあるのみなので,年上の子の性別や血縁関係は不明と思われる。

となると,「かさね」の命名は
「死霊解脱物語聞書」刊行の前年より
さらに数年さかのぼることになり,
少なくとも
「死霊解脱物語聞書」を読んだ「かさね」の親が
自分の娘に「かさね」と名づけたということは
あり得ないという結論になる。

ただし,
「死霊解脱物語聞書」刊行以前の段階でも
羽生村事件のストーリーが
ある程度は人々の間に広まっていた可能性もあり
「かさね」の親が「かさね」誕生の時点で
羽生村事件を伝聞により知っていたことまでは
否定しきれないだろう。

あるストーリーが過去のある時点で
伝聞,噂話の形で広まっていたか否かを
検証するのは相当困難であり,
結局,「累ヶ淵」の「累」が
「奥の細道」の「かさね」命名に影響を与えたか否かは
おそらく永遠に謎まま,
今後も奇談愛好家たちの想像力をかきたてていくのであろう。

 

 

・・・と,これで終われば
綺麗に話が落ちることになるのだが,
実はまだ終わらない。

今までの検証の大前提を崩壊させてしまう
文献が存在するのである。
それは,
ほかならぬ河合曾良の日記である。
「奥の細道」において,
かさねの名前を歌に詠んだとされる曾良の当人の日記には
歌を詠んだことはおろか,
「かさね」という少女に会ったことも記録に残っていない。
それどころか,
「ちいさき者ふたり」に会ったことも,
「かさね」の父親と思われる農夫が芭蕉に馬を貸してくれたことも
(これが芭蕉が「かさね」と出会う端緒となった)
記録されていないのである。
http://www.tatematsu-wahei.co.jp/nikki/htmlData/00/00_06.html

そもそも,
この時代,馬は現代で言えば高級車にあたるような
一大財産だったわけで,
いくら人の良い農夫であっても,
簡単に芭蕉たちに馬を貸しているのは
不自然である。

更に
その1でも触れたとおり,
芭蕉の「奥の細道」と曾良の日記の齟齬は
他にも指摘されている箇所がある。

結局,
芭蕉と曾良がともに旅をしたこと自体は
事実ではあるけれども,
「奥の細道」はその正確なルポタージュではなく,
あくまで創作された一つのフィクションと
捉えるべきなのであろう。

残念ながら,
那須・黒羽の少女「かさね」は
芭蕉が「奥の細道」の中で創造した
虚構のキャラクターというのが正解のようだ。

しかしながら,
それでもまだ残る謎はある。
それは芭蕉が「奥の細道」に「かさね」というキャラクターを
登場させた理由である。

芭蕉が羽生村事件を知った上で
「かさね」というキャラクターを創造した可能性はないだろうか。

次回はこの点を検証してみたい。

(補筆)
前の日曜日に
「芭蕉とかさね」をブログに乗せ始めてから
どーも妙な感じのことがありまして・・・
微熱が出たりもするし。
”怪を語れば怪至る”とはこういうこと?

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2006年3月13日 (月)

芭蕉とかさね(その2)

前回からのつづき

分かりやすくするために関連する出来事を時系列で示してみよう(★は芭蕉関係)。

 

1644年 ★松尾芭蕉 誕生

1647年 羽生村の百姓の女・累が婿の与右衛門に殺害される。目撃した村人がいたが,公にならず。

※その後,与右衛門は何度か後妻を迎えるが,次々と亡くなる。6 番目(?)の後妻は比較的元気で女の子を産み,菊と名付けられる。

1671年 菊の母親が病死。菊は数え年13歳で同村の男・金五郎と結婚

1672年 菊が累の霊に乗り移られる騒動発生(羽生村事件)。

1690年 羽生村事件を題材にした「死霊解脱物語聞書」刊行

1694年 ★松尾芭蕉 死去

1702年 ★「奥の細道」刊行

 

この時系列からすれば,少女時代の累に芭蕉が遭遇することはあり得ないことが分かる。むしろ,芭蕉の幼年時代に累の殺害事件が起きているのである。

それに,芭蕉が「かさね」という少女と出会ったのは,前回紹介したとおり,那須の黒羽であり,ここは下野の国であるのに対し,累が住んでいた羽生村は下総の国であり,地理的にも結構離れている(今で言えば,前者は栃木県大田原市,後者は茨城県水海道市)。

よって,「奥の細道」に登場する少女「かさね」と,怪談・累ヶ淵の「累」は同名の別人物というのが論理的帰結ということになろう。

だが,私としては,一点,どうしても引っかかるところがある。それは「かさね」という名前そのものについてである。

前回も触れたとおり,「かさね」という名前は極めて珍しく,文献上「奥の細道」と「累ヶ淵」でしか確認できないもようである(ちなみに,同じように怪談の主人公である「岩」や「菊」という名は多数実在する。)。極めて稀な「かさね」という名前が,一方では現在においてもなお広く知られる「奥の細道」に登場し,他方では,現在はそれ自体はあまり知られていないとはいえ,江戸の三大怪談のひとつ「累ヶ淵」の種本となった「死霊解脱物語聞書」に登場している。偶然にしては出来過ぎの感が否めない。同一人物ではないにしても,同じ名前であることには何らかの関連性があるのではないかという思いを否定しきれないのである。

これについては,「累ヶ淵」の「累」の読みは本当は「るい」ではないかという意見もある。すなわち,怪談の主題が,同じことが時間をおいて繰り返されること,つまり"かさねる"ことにあることから,本来は「るい」と読まれていたのが次第に「かさね」と読まれるようになっていったという考え方である。

傾聴に値する意見ではあるが,しかし,「死霊解脱物語聞書」の絵本において,「かさね」という字が見て取れるものがある。

http://koneeta.hp.infoseek.co.jp/kaizu/03a.jpg

↑では,やや分かりにくいが,崩し文字で「かさねかおんりやう」という字が確認できる(「累が怨霊」,つまり累の怨霊という意味か)。この絵本は1712年刊とのことであるが,そうだとすると羽生村事件からまだ40年ほどであり,十代で事件を目撃した人物が六十代くらいで生きていてもおかしくないくらいの時期であることからすれば,やはり「かさね」が正しい読みだとみて良かろう。

「累ヶ淵」の「累」と「奥の細道」の「かさね」は同一人物ではないけれども,何らかの関係性を有するとした場合,具体的にはどんなケースが想定できるであろうか。

ひとつ考えられるのは,那須・黒羽の「かさね」の親が「死霊解脱物語聞書」を読んでおり,それにちなんで自分の娘に「かさね」と名付けた場合である。もしこんなことがあったとしたら,まるで江戸時代版の悪魔ちゃん事件だという感もあるが,前回に紹介した私の友人のケースもあるので,絶対ないともいえない(もっとも,私の友人の場合は「累ヶ淵」にちなんだわけではないが)。

そこで今度は「累ヶ淵」の「累」が「奥の細道」の「かさね」の命名に影響を与えた可能性について検討してみることとしよう。

(以下続く)

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2006年3月12日 (日)

芭蕉とかさね

以前,友人夫婦に女の子が生まれたときに,友人(夫の方)が「風音」(かざね)という名前を付けようとして,奥さんだけではなく双方の両親や友人たちからも大反対を受けて断念したことがある。

周囲の皆さんが反対したのは,その名前が怪談「累ヶ淵」の主人公である「累」に繋がるからなわけである。それゃ反対するわな(もっとも,怪談の主人公と読みが同じ名前なら一切駄目なのかというと,なかなか難しいところである。たとえば「貞子」だったらどうだろう?)。

「累ヶ淵」の簡単なストーリーは↓を参照にされたし。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000154/files/42318_19228.html

ところで,この「累ヶ淵」は完全なフィクションではなく,1672年に下総国・岡田郡羽生村で起こった事件がベースになっているとされる。

http://www.city.mitsukaido.ibaraki.jp/sights/history/015.htm

http://meguroku-net.com/meisyo/yuutenji/yuutenji-4.htm

なお,「フィクションではなく」というのは,累の亡霊が菊という娘に憑依したのが事実だということを意味するわけではない。客観的には,菊が自分が亡霊に憑依されたと主張し,かつ,憑依されているかのごとき言動を取ったというところまでが事実である。

さて,話は飛ぶが,このブログを読まれている数少ない皆さんは,松尾芭蕉の奥の細道をご存知だと思う。「奥の細道」の知名度は,おそらく怪談「累ヶ淵」などとは比較にならないくらい高いだろう。(江戸時代には,「累ヶ淵」の原話(「死霊解脱物語聞書」)の方がおそらく一般に広く知られていたという話もあるのだが。)

この「奥の細道」には,一緒に旅をした曾良の記述と合致しないところがあるとか,芭蕉は実は公儀隠密(幕府のスパイ)じゃないかとか,いろいろ謎めいた話があるのであるが,私的に非常に興味をひかれる箇所がある。

前振りが長かったが,ここでようやく本題に入る。芭蕉と曾良は,那須の黒羽というところで「かさね」という名前の小娘に出会っているのである。

http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/okunohosomichi/okuno06.htm

http://133.67.9.141/study/public_html/study6.html

かさねとは八重撫子の名成べし 曾良

当時,女性の名前は音2文字(「きく」とか「いわ」とか)が普通であり,3文字は珍しい。しかも,文献上,「かさね」と読める名前は,この「奥の細道」の小娘と,怪談「累ヶ淵」の主人公しか確認されていないらしい。

以上から,次のような仮説が立てられる。もしや松尾芭蕉は後に「累ヶ淵」の主人公となる女性が小娘の時に出会い,その奇跡的に偶然な会合が「奥の細道」に残されたのではないかと・・・果たしてこの仮説は肯定できるであろうか?

(以下,後日につづく)

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