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2006年3月18日 (土)

芭蕉とかさね(その3)

松尾芭蕉が那須・黒羽で
「かさね」という小娘に出会ったのは
「奥の細道」によると
元禄2年(1689年)4月3日のことらしい。

これを「その2」で示した時系列表の中に
入れてみると
次のとおりとなる(羽生村事件より前の出来事は省略)。

1672年 菊が累の霊に乗り移られる騒動発生(羽生村事件)。

1689年 ★松尾芭蕉,那須・黒羽で少女「かさね」と出会う。

1690年 羽生村事件を題材にした「死霊解脱物語聞書」刊行

1694年 ★松尾芭蕉 死去

1702年 ★「奥の細道」刊行

一見して明らかなとおり,
松尾芭蕉が「かさね」と出会ったのは,
「死霊解脱物語聞書」刊行の前年である。

幼いとは言え,
芭蕉の乗る馬の後を慕って
年上の子供(*)と一緒に追いかけていること,
自分の名前を名乗っていることからすれば,
「かさね」は少なくとも
四,五歳にはなっているとみるべきであろう。
*与謝野蕪村の挿絵では年上の男の子が一緒に描かれているが,
原文では「ちいさき者ふたり」とあるのみなので,年上の子の性別や血縁関係は不明と思われる。

となると,「かさね」の命名は
「死霊解脱物語聞書」刊行の前年より
さらに数年さかのぼることになり,
少なくとも
「死霊解脱物語聞書」を読んだ「かさね」の親が
自分の娘に「かさね」と名づけたということは
あり得ないという結論になる。

ただし,
「死霊解脱物語聞書」刊行以前の段階でも
羽生村事件のストーリーが
ある程度は人々の間に広まっていた可能性もあり
「かさね」の親が「かさね」誕生の時点で
羽生村事件を伝聞により知っていたことまでは
否定しきれないだろう。

あるストーリーが過去のある時点で
伝聞,噂話の形で広まっていたか否かを
検証するのは相当困難であり,
結局,「累ヶ淵」の「累」が
「奥の細道」の「かさね」命名に影響を与えたか否かは
おそらく永遠に謎まま,
今後も奇談愛好家たちの想像力をかきたてていくのであろう。

 

 

・・・と,これで終われば
綺麗に話が落ちることになるのだが,
実はまだ終わらない。

今までの検証の大前提を崩壊させてしまう
文献が存在するのである。
それは,
ほかならぬ河合曾良の日記である。
「奥の細道」において,
かさねの名前を歌に詠んだとされる曾良の当人の日記には
歌を詠んだことはおろか,
「かさね」という少女に会ったことも記録に残っていない。
それどころか,
「ちいさき者ふたり」に会ったことも,
「かさね」の父親と思われる農夫が芭蕉に馬を貸してくれたことも
(これが芭蕉が「かさね」と出会う端緒となった)
記録されていないのである。
http://www.tatematsu-wahei.co.jp/nikki/htmlData/00/00_06.html

そもそも,
この時代,馬は現代で言えば高級車にあたるような
一大財産だったわけで,
いくら人の良い農夫であっても,
簡単に芭蕉たちに馬を貸しているのは
不自然である。

更に
その1でも触れたとおり,
芭蕉の「奥の細道」と曾良の日記の齟齬は
他にも指摘されている箇所がある。

結局,
芭蕉と曾良がともに旅をしたこと自体は
事実ではあるけれども,
「奥の細道」はその正確なルポタージュではなく,
あくまで創作された一つのフィクションと
捉えるべきなのであろう。

残念ながら,
那須・黒羽の少女「かさね」は
芭蕉が「奥の細道」の中で創造した
虚構のキャラクターというのが正解のようだ。

しかしながら,
それでもまだ残る謎はある。
それは芭蕉が「奥の細道」に「かさね」というキャラクターを
登場させた理由である。

芭蕉が羽生村事件を知った上で
「かさね」というキャラクターを創造した可能性はないだろうか。

次回はこの点を検証してみたい。

(補筆)
前の日曜日に
「芭蕉とかさね」をブログに乗せ始めてから
どーも妙な感じのことがありまして・・・
微熱が出たりもするし。
”怪を語れば怪至る”とはこういうこと?

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